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至誠留魂

2004 年 9 月 18 日

20040918
そーいえば、高校の修学旅行が広島、山口で、確か萩・津和野は
自由行動だった。萩焼きを体験してね。一応コーヒーカップ&ソー
サーを作ってみたんだけど、100年後に価値が上がるであろう、
アヴァンギャルドな作品に仕上がったよ(笑)。

仕上げが攻撃的だったのか、指に唇にチクチク刺さるんだよ。M的
な方にはオススメですぅ。松下村塾も見てるんだよね。小さく古い
小屋で、何がそんなに価値があるワケ?って感じだった。

今になって、ここは明治維新の原動力となった人達の多くが、生ま
れた所なんだと知った。歴史って、全~然興味なかったからなぁ。

そんな志士達の青少年時代に、その精神的先導者となったのが
吉田矩方(のりかた:号は松陰 1830~1859)だった。彼は下級
武士の次男として生まれ、幼時に山鹿流師範の吉田家の養子に
なり、同家を継いだ。

秀才だった彼は、わずか10才前後で、藩校明倫館に出仕し、山鹿
流兵学を講じている。彼の生涯は30年にも満たない短いものだったし、
その晩年には入獄や、禁固の期間もあった。

しかしその間、彼は学問を熱心に学び、また兵学勉学の名目で、
九州から北奥羽まで全国を広く訪れ、各地で著名な学者などと
交流した。

それは京都では勤王志士と、水戸では水戸学者と、また江戸で
は蘭学者で砲術家の佐久間象山といった具合だった。このように
して、幅広い知識を身につけた吉田松蔭は、ついに密出国して、
海外事情をも調べようとしたが失敗した。

そのため萩で入獄していた松陰は、やがて実家での禁固生活を
経て、私塾の「松下村塾」で下級武士の子弟教育に着手した。

塾の教育方針は、学問と実戦訓練を合わせたものだった。その
教育期間は、彼の最晩年の2年足らずだったが、彼の学識と
幅広い見聞から得た見識を、巧みな教え方によって伝え、
門下生に大きな影響を与えた。

今も昔も、先生の影響ってホ~ント大きいんだよね。その後の生き
方が、180度変わるコトだってあるんだから。実感! 松蔭は若く
して亡くなったので、その思想が体系化されるまでには至らなか
ったが、筆マメの彼は色々な書き物を残したから、そこからその
考え方を類推できる。

まず、彼は思想と実践の一体化を唱えている。また、兵学者らしく
「草莽崛起(そうもうくっき)」と「至誠留魂(しせいりゅうこん)」による
倒幕の方法論も説いている。

「草莽崛起」とは各地の士達が、ゲリラ的に一斉蜂起して、幕府を
包囲攻撃するという事。また「至誠留魂」とは、志士の何人かが
倒されても、その後継者が次々にその志を引き継いで、息長く
活動を継続する事を意味している。

彼の行動は、老中襲撃計画を実行しようとするほどの激烈さを
持っていた。後年、松蔭の教えを受けた人々が、明治維新を
成功させたので、彼は神様になったが、もしそうでなかったら、
危険な過激派の理論、及び実行指導者として葬り去られて
いたに違いない。

高次元(?)な過激派と英雄は紙一重の差なのかもしれないね。
そして、もし彼の密航計画が実現していたら、また違った展開
を見せていたに違いない。ってさ(笑)。

インターネットで吉田松蔭を調べると、出てくる出てくる。いつの
時代にも、「ダメだこりゃ~」と立ち上がった勇気あるパイオニア
がいるんだよね。

そー考えると、急に元気が出てきて、ワクワクしてくる! 歴史「を」
学ぶのではなく、歴史「に」学べとは、こーゆー事なんだろうなぁ。

異常・・・じゃなくって、以上をもちまして(笑)、空庵秋の限定企画
「未空“超知ったか”歴史講座」を終わらせて頂きます。最後まで
ご清聴、ありがとうございました(←勝手にパチパチパチパチ、
一人パチパチパチパチ、空しく・・・パチパチパチパチ(笑))

♪今日の右翼 こ~んなにデカい日の丸って、どこに飾るんだろ? ユニオンジャックだったら、何も言われないんだけどね(笑)

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