2005 年 7 月 28 日 のアーカイブ

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空(くう)Ⅱ

2005 年 7 月 28 日

同じくご自分のHPをお持ちの方から、「巫女未空さん、あの柳澤さんという人の本、
売れてる原因はどこにあると思いますか? セキララな本ですか? 私も人生の
半分以上をトービョーに明け暮れています。ところで、あなたのドコモは、一体
どれだけの分量が打てるのです?!」というMailを頂いた。どうもありがとう
ございます。フッフッフッ。SH900iは余裕の10000文字さ。どーだー(゜▽゜) 

だからといって、別に10000文字全部は使わないよ(笑)。FOMAはもう携帯PCだ。
どこに出かける時にも持って行くクセがついた、デジカメの使えない私。画質は超
キレイだし、Mailの送信は早いし、使った文字はすぐ出てくるし、さすがMy2代目
携帯、高いだけあったね。すっかり元は取れてるよ。

今までも般若心経の本は色々と出ていたが、ほとんどは宗教者が書いていて、
文体も「~である」体だった。柳澤さんの本は、文体が「~ですます」体でサラ
サラと読め、絵も仏教色ゼロ。この絵を描いた画家は、柳澤さんよりも高齢な女性
だが、相当ブッ飛んだ人生を歩んでいる(^_^) その名も掘文子さん、現在87歳。

因習的な画壇に背を向け、独自の画業を目指す孤高の生き方や、圧倒的なリアリズム
の技量と詩情溢れる画境に惹かれる多くの熱狂的ファンを持つ日本画家、だそうな。

1918年、東京平河町生まれ。1936年のニ・ニ六事件では、生家の庭を銃剣で武装した
決起兵が行軍したという。女性の自立など一顧だにされなかった当時の社会風潮に抗
して、真の自由を求めて画家を志す←ここまで読んだだけでも、かーなーり惹かれたね。

女子美術専門学校(現在の女子美術大学)在学中の1939年、当時新しい日本画運動の
拠点だった新美術人協会展で初入選。1946年、外交官と結婚←いかにもって感じ(笑)。

1952年、上村松園賞。1960年、夫と死別後に3年間あまり諸国を放浪し、画家として
の方向性を模索する。彼女はこの時、42歳。1974~1999年、多摩美術大学教授。

1987年、軽佻浮薄の極みに堕したバブル期日本を嫌い、イタリア・トスカーナの古都
アレッツォに移住。1992年、同市で「掘文子日本画展」を開催し、異例の日本画国際
進出を試み、絶賛を受ける。1995年からアマゾンの熱帯雨林、マヤ・インカの遺跡等
へ精力的なスケッチ旅行を敢行。彼女はこの時、77歳! 2000年、82歳にして幻の花
「ブルーポピー」尋ねて、ヒマラヤ5000mの高地を踏破。ひぇぇぇぇぇ~。NHKハイビ
ジョン「ヒマラヤ高き峰を求めて~日本画家・掘文子」として放映←見逃したんだよね(泣)。

2001年に重い心臓病から奇跡的回復を遂げて以後は、生命の根源に関心が集中し、
ミジンコなど極微の生命宇宙を精力的に描くようになっているそうな。カッコイイね。

一本ピシッと筋が通ってて清々しい。まさに掘さんは、ご自分のDharma(本分)を
生きておられる見事な女性だよ。私は機会があれば、是非ご本人に直接お会いした
いと思った。また、タイトルを般若心経とはせず、「生きて死ぬ智慧」にしたのもうまい!

やられたね。思わず手に取りたくなりますものね、そっち系のヒトならf^_^; 座布団
10枚、歌丸さんの取ってって感じ(笑)。黒い装丁が目を引き、さながら大人のため
の高級絵本といった感じだ。企画・編集の見事な戦略勝ちとも言えるかな。

「人生の半分以上をトービョーに明け暮れています」というこの方のために、今夜も
祈りの瞑想をしたいと思う。こ~んな広い世の中で、ワタシと出会って下さったあな
たが、今よりラクになれますように・・・
20050728

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