2005 年 9 月 20 日 のアーカイブ

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「たかが」と「されど」

2005 年 9 月 20 日

最近、TVのニュースなどで、ある物事や事件に対して、たかがの側とされどの側
の意識の差があまりに大きくて、これじゃムリだよねというシーンをよく目にする。

例えば北朝鮮。核の問題に比べれば、たかが拉致。だが、被害者の家族からすれば、
されど拉致。これはもちろん外交のような大問題だけではなく、普段の日常生活に
おいても、しばしば直面する。たかがハガキされどハガキ、たかが1本の電話されど
1本の電話、たかがコピーされどコピー、たかが空庵されど空庵etc.

たかがとされどの溝は、容易には埋まらない。この両者を結ぶものとは、一体
何だろう? 相手に対する優しさ、思いやり、共感能力・・・ もし、されど側に
なったとしたら、必死に知恵を絞って、何とか事態の解決に当たるしかない。

たかが側は、あくまでたかがの範疇にドップリ浸っているので、危機感はほと
んどない。だから、されど側が行動を起こして示すしかないのだ。

久々に会った友人に面と向かって、「みんながみんな、未空さんのようにストレート
に生きてる訳じゃないんだから」と言われた事がある。私が特にストレートだとは
思えないし、そもそもストレートに生きているという事はどういう意味なんだろう?

彼女に聞くと、「うーん、まっすぐっていうか、嘘をついてないというか・・・」答え
は曖昧だった。私の根性はひん曲がってるし(笑)、時には平気で嘘もつく。

できるだけ自分に嘘をつかず、素直でありたいと思うが、なかなかそうはいか
ない場面も出てくる。交渉事は骨が折れるし、駆け引きも苦手なんだよね(泣)。

人との争いは、できるだけ避けたいと願う私は、このところずっと、されど側に
立たされてるような気がしていた。だが、物事は表裏一体なので、実は私の
たかがが、誰かのされどになっているのでは?とも考えるようになった。

もしかしたら、かなり自然に、そして平然とたかがをやってる私がいるんじゃな
いか、と。たかがMailされどMail、たかが一言のお礼、されど一言のお礼etc.
だとしたら、本当に申し訳ないと思う。この場を借りて謝っておきたい。

ゴーマンな人を見る度、ああはなりたくないと思う。でも、そこに反応してる
自分は間違いなく、その上をいくゴーマンさを内在している。外から来る縁と
内在する因が「因縁和合」しない限り、物事は起きないし、共鳴もしないのだ。

美老庵・師匠は、「外界は己を映し出す鏡」と言い、ヴェーダでは「起きてくる
事の全ては、自分にふさわしい」と教える。「キビシー」by 財津 一郎(笑)

そんなこんなで、「たかが」と「されど」の攻防は続く・・・
20050920

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