2005 年 12 月 11 日 のアーカイブ

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意味の編み目を生きる

2005 年 12 月 11 日

合掌 こんにちは。

子供達が無惨に命を奪われたり、行方不明になる事件が相次いでいます。
昨日もまた、学びの場で、子供達を教え導くべき立場の者により、犯行が
行われました。

弱き者は守られねばならない。そんな私達の「常識」は、簡単に現実によって
裏切られます。弱き者に対して、私達の多くは通常、慈しみの気持ちを持ち
ます。けれど、全ての人が常にそうであるとは限らないのです。広島の事件、
そして、今回の京都の事件では、事件の経緯と犯人の人物像が様々に報道
されて、「なぜ犯人は、子供を殺すに至ったか」が示唆されています。

幼女に性的興味があったから。自分の人格を拒絶されたから。栃木の事件は、
真相が全く判明していませんが、遺体の状況は極めてサディスティックなも
のであったようです。長野の事件は、犯罪か家出かすらわかっていませんが、
「一時、子供を保護した」という偽証によって、社会を混乱させた女性がいま
したね。

弱き者を慈しもうとする気持ち。弱き者を傷つけようとする気持ち。どちら
も間違いなく人間の感情です。「心の癖」によって、前者の気持ちが強い
人もいれば、後者の気持ちが強い人もいます。けれど、善人と悪人がいる
という訳ではないという事を、私達は知らねばなりません。

十界互具、人の一瞬の心の中に地獄から仏様まで、善悪美醜あらゆる心
の要素が可能性として遍在しているという仏教の教えからいえば、誰もが
どのような状況にも変化しうるのですから。

昨日、とある場で若いお母さん達の会話が耳に入りました。
「うちの子供を可愛いと思った事なんて一度もない」
「あっ、私もそう」
「下の男の子は可愛いんだけど、上は女の子だからかなぁ。お父さん
を取り合うライバルみたいで」
「わかるわかる。1日に何10回も“お母さん、お母さん”とうるさいから、
“お母さんが今、何やってるか見てわからないの?!”って怒鳴りつけ
た事あるし」

我が家とは、ずいぶん違うなぁと思いながらも、自分自身を振り返ると、
そうした感情が自分の中に皆無ではない事に気づきます。私は、私の
子供達を心から愛しています。けれど状況によって、鬱陶しいと思う
瞬間はあります。

つい邪険に扱ってしまう事もあります。「躾のために叱る」という節度を
理不尽に踏み越えてしまうその瞬間は、後で振り返れば間違いなく、
自分の心に余裕がない時なのですよね。

もちろん、社会の中で生きるとは、本来そういう事です。様々な人がそれ
ぞれに心を抱えて生きている。だから、人生は理不尽に満ちている。その
現実を肌で理解し、一定の耐性を持つ事がなければ、子供達の「社会性」は、
極めて弱々しいものになるでしょう。けれど、それを口実に大人が反省を
失うべきではないし、子供が犠牲となる犯罪や児童虐待が正当化される
はずもありません。

私達は、誰もが意味の網の目を生きています。人が人と接するという事は、
意味が絡まり合い、響き会う事です。人間関係の中で、私達は時に優しい
感情に満たされ、時に憎悪が際限なく膨れあがって、その心に従って言葉
を発し、行動します。言葉はまた、心を掻き乱し、身体を動かしてゆく。

身口意の三業が互いに影響し合いながら、更に意味の網の目を織り上げ
てゆく。その過程を整える事こそが、人が幸せに至る道である事は間違い
ありません。

お釈迦様は「心の苦しみの原因となるから、何者も愛する事なく、社会から
離れて修行せよ」として、出家修行によって、初めて人は苦しみの輪廻から
逃れられると説かれました。それは、冷徹なまでの真理です。後に、仏教の
少なからぬ流派(現代日本仏教を含む)は、その点で修行方法を「後退(また
は「深化」)」させ、在家生活のままで救われる道を説くに至るのですが、
そこには信仰と、そして苦しみの可能性を引き受ける意志を必要としました。

家庭を持ち、社会生活を営む以上、私達は様々な人間関係を受け止めて、
生きてゆかねばなりません。その中で幸せを求めるならば、社会が、そして
何よりも自分自身が、心を穏やかに保つ努力と工夫を積み重ねる必要が
あるのです。

今日も良い一日でありますように。再拝

/福頼 宏隆(法華コム)
20051211

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