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映画「大地の詩 留岡幸助物語」in 大正大学

2011 年 7 月 11 日

留岡幸助との出会いは、6/30付「空庵氏神様“天祖神社”夏越の祓
2011 in 大塚」http://www.coo-an.com/blog/archives/13693で、
都電に乗った際、庚申塚駅で映画のポスターを見たのがきっかけだった。
キャッチコピーは、

「捨てるべき人間はいない」

ココロ惹かれ、一体、何をやった人なんだろうかと気になった。どうも巣鴨
とご縁が深いらしい。留岡幸助(1864~1934年 享年70)は日本の
社会福祉の先駆者で、感化院(現在の児童自立支援施設)教育の実践家。

北海道家庭学校の創始者として知られ、石井十次、アリス・ペティ・アダムス、
山室軍平と共に「岡山四聖人」と呼ばれる。明治時代の社会事業をけん引
した留岡幸助の創設した家庭学校が、大正大学のある豊島区内(前・癌研
跡地)にあったのだ。そんなご縁から大正大学で、「大地の詩 留岡幸助
物語」の上映会が行われた。

岡山県高梁市に生まれ、幼くして商家の養子になった幸助は、ある日、金持
ちの武士の子に一方的に殴られ、耐えきれずに相手に噛みつき打ち負かす。

その事で米屋を営む実家は得意先を失い、幸助は父から折檻を受け、学校
を退学させられた挙句、商人になる事を強いられる。幸助は幼くして、不平等
な身分社会に憤りを感じる。

青年になると、幸助はキリスト教へ入信。同志社英学校(神学科)へ月謝
免除で入学。その頃、「遊郭」と「監獄」という人間社会の2つの暗黒面の
存在を知り、監獄改良を訴え続けたジョン・ハワード伝を読んだ事に、強い
影響を受ける。

そして24才で卒業後、丹波教会の牧師となる。多くの人に信頼される牧師
として、活躍した幸助だったが、明治24年、金森通倫牧師の勧めで、妻子
を連れて、北海道・空知にある監獄の教誨師に就任する。

その頃、空知集治監では、重罪犯2,000人を収容し、中には、終身刑
を3つも4つも持っている囚人もいた。強制労働など過酷な刑罰を受ける
囚人達。幸助は、何とか囚徒を更生させ、監獄を改革しようと、3年に
渡って囚徒の過去を調査する。

そして、犯罪の芽は幼少期に発する事を知り、幼い頃の家庭教育の
大切さに気づく。また、幼き日の友人が、犯罪者になっていた事も、
少年感化に従事する遠因となる。

幸助は教誨師を辞めると、米国に渡り2年をかけて欧米の監獄事情
を学ぶ。そして帰国後、少年感化を実現すべく、北巣鴨の一角に
「家庭学校」を作り、広く感化を要する子弟を教育、少年感化事業の
先駆者となる。

後に巣鴨の地が都会的になると、ルソーの著書「エミール」に書か
れた「子供を育てるには、大自然の中が一番」という説に感銘を受け、
北海道・遠軽の地に家庭学校を作る。

その教育は、21世紀となった今もなお受け継がれ、その土地は
「留岡」という地名になって、現在に至っている。

私が留岡幸助の印象に残った言葉は、

「希望はうんと高い所に置き、成すべき事はうんと低い所から」

「一路白頭(いちろはくとう)に至る」
一生、選んだ仕事を大切にし、人に愚かと言われても、時代遅れと
罵られても、頓着なしに白髪になるまで、一路白頭が私の天職である。

私がイスラエルに行く時は、この人と一緒に行く!と決めている、不良
牧師のアーサー・ホーランド氏も宣教師役で出演していた。監督の山田
火砂子さんに、とても興味が湧いて、他の作品も是非、見てみたい。

やはり映画もご縁だと思う。このご縁に心から感謝だ。

山田 火砂子監督「大地の詩 留岡幸助物語」
http://www.gendaipro.com/tomeoka/index.html

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