ヘレン・ケラーが尊敬していた日本人「塙 保己一」

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三重苦の障害でサリバン先生と出会い、様々な学問を積んで、
ハーバード大学に入学し、文学士の称号を取得したヘレン・
ケラーは超有名人だが、彼女が尊敬していた人物に、日本人
がいる事はほとんど知られていない。

彼女は幼少時より、「塙保己一を手本にしなさい」と両親から
教育されて、1937年に来日した際、記念館を訪れている。

彼女が尊敬していた人物は、「塙 保己一(はなわ ほきいち)」
という江戸時代の国学者だった。
http://www.honjocci.or.jp/sightseeing/showplace/gm-hanawa-hokiichi.html

フリー百科事典「Wikipedia(ウィキペディア)」等によれば、塙保己一は
1746年に生まれ、幼名を寅之助といった。幼少の頃から、身体は華奢
で乳の飲み方も弱く、丈夫ではなかった。草花を好み、非常に物知り
であったという。

5歳の時に疳(かん)の病気(胃腸病)にかかったのが原因で、目痛や
目やにの症状が出て、徐々に視力が弱っていき、7歳の春に失明した。

ある時、寅之助の事を聞いた修験者が、「生まれ年と名前の両方を
変えなければ、目が治らない」と進言し、名を辰之助と変え、年を2つ
引いた。目痛や目やには治り、その後、修験者の正覚房に弟子入り
して、「多聞房」という名前をもらうも、視力は戻る事はなかった。

だが、手の平に指で字を書いてもらい、文字を覚えた。また、手で形
を触ったり匂いを嗅いだりして、草花を見分ける事ができた。目が
見えなくなってから、和尚や家族から聞いた話を忘れる事はなく、
一言一句違わずに語る事ができたほど、物覚えが良かったという。

10歳になると、江戸で学問を積んで立派な人間になりたいと考える
ようになるが、両親が反対するだろうと悩んだ。ところが、1757年、
母きよが過労と心痛で死去する。形見として、きよのお手縫いの
巾着をもらうと、巾着には23文入っていた。

1758年、絹商人に「太平記読み」で暮らしている人の話を聞き、
江戸で学問をしたいという気持ちが、いっそう募っていった。

つづく

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