中村哲さん

ホーム >  未空ブログ > 中村哲さん

中村哲氏の講演会「孤立のアフガン」

福岡市中央区薬院・河合塾にて 2001年9月30日

1.「報道管制」は不可能

 タリバーンは、報道管制を敷いていると欧米や日本のマスコミは言います。

 しかし、アフガンではこれは不可能な事です。なぜならば、電気が通って

 いない村が、圧倒的に多いからです。つまりテレビがありません。徒歩でしか

 行く事ができない村も多い。3000メートル級の山岳地帯が大部分のアフガンで、

 そのような統制ができる事は考えられません。アフガン人の多くは、BBC放送の

 パシュトゥー語ラジオを聞いて、割りと正確に、今回の米国における同時多発

 テロを把握しています。なお、このテロ事件のニュースが伝わった際、アフガン人

 のほとんどは、テロリストを強く非難し、犠牲者への哀悼の意を表しました。

 しかし、テロを指揮したとされるビンラディンが潜伏しているので、アフガンへ

 報復攻撃をするというアメリカに対して、今までにない桁外れの敵意を抱いています。

2.「女性への抑圧」の実体

 タリバーンは外出する女性に、ブルカ(チャドル)の着用を義務づけています。

 これが欧米の人権活動家には、女性抑圧の最たるものと映っています。しかし、ブルカ

 着用は農村部での常識です。農村出身者が多いタリバーンは、農村の常識を都市部で強制

 しているにすぎません。

3. 大変親日的なアフガン人

 どんな山奥の小さな村に行っても、広島・長崎に原爆が投下された事を知らない人はいません。

 アフガン人達は、自分達の国を侵略したロシア・イギリスと戦った日本に好意を持っています。

 最も、日本についての正確な知識は、ほとんどありません。真顔で「日本まで、歩いてどの

 くらいかかるのか?」と聞かれた事があります(笑)。それはともかく、アフガン人の間に、

 外国人排斥の動きがあっても、日本人は例外とされてきました。このおかげで、ペシャワール会

 の活動がどれほど助けられたかわかりません。しかし、今回の米国の報復に日本が協力を表明

 した事で、アフガン人の親日度が下がる事は間違いありません。

4. 誇り高いアフガン人

 アフガン人達は、ロシア・イギリスの度重なる侵略を自力で跳ね返した事に誇りを抱いています。

 そして、統一国家アフガニスタンを指向する気持ちが、根強くあります。そのアフガニスタンは、

 多民族国家です。パシュトゥー人、ウズベク人、タジク人、日本人によく似た顔立ちのハザラ人

 からなっています。その彼らをまとめ上げているのが、統一国家アフガンへの思いと、イスラーム教

 です。但し、統一国家といっても、近代国家のそれではありません。江戸時代の幕藩体制のような

 ものです。

5. アラブ人への感情

 知っての通り、アフガンのタリバーン政権は、アラブ人のオサマ・ビンラディンをかくまっています。

 これは、彼が旧ソビエトと戦った事と、異国から来た客は、丁寧にもてなすアフガンの伝統からです。

 その客人をアメリカに引き渡すのはとんでもないと、普通のアフガン人は思っています。しかし、だから

 といって、アラブ人に対する感情は良いとはいえません。

6. 250円と8円の命

 アフガン・パキスタンでは、250円の薬が買えないために、ばたばたと人が死んでいきます。しかし、

 扁桃腺が腫れただけで、ロンドンやニューヨークへ飛んで、診察してもらう金持ちがいます。彼らは、

 日本の小金持ちがビックリするほどの財産を持っています。その一方で、一発の銃弾の値段は8円です。

 8円で人殺しができます。

7. BBCヒーロー

 1979年にソビエトがアフガンに侵攻した際、多くの人々が、村や家族を守るためにゲリラとなって戦いました。

 外国のマスコミが取材に殺到しました。報道によって、ゲリラの中から、日本や欧米で有名になった者が出ました。

 彼らは、BBCヒーローと呼ばれています。BBCとは、イギリスのテレビ・ラジオ局で、日本のNHKにあたります。

 アフガンにおける外国マスコミの代名詞です。そのいわば、作られた英雄の中で、日本でも有名なのが、米国

 同時多発テロの2日前に暗殺されたマスードです。しかし、彼はひどい事をしました。ソビエト軍撤退後の内戦で、

 タジク人の彼は、対立するハザラ人の村に、無差別攻撃を行い、多くの人々を虐殺しました。

8. アフガンは地球温暖化と国連経済制裁の犠牲者

 私がアフガンに来た17年前と比べると、この地を東西に横切るヒンズークシ山脈に降る雪の量が、目に見えて減って

 います。それで、雪解け水の量も激減しています。降雨量も同じです。地下水の水位が下がっています。昨年アフガンは、

 史上最悪の旱魃に襲われました。雨が一滴も降らなかったのです。川は干上がり、井戸は枯れました。田畑や牧草地は

 乾き、砂漠になりました。多くの農民や遊牧民は難民となり、都市に流れ込みました。廃村が続出しています。この飢餓

 と水不足で、これまでに約100万人が餓死したと言われています。この事は、全くと言っていいほど、先進国では報道

 されませんでした。それどころか、米国や国連は、アフガンをテロ支援国家に指定して、経済封鎖を続けています。

 そのために、被害はひどくなる一方です。その上に、米国の報復攻撃です。崩壊寸前の小国を相手に国際社会、すなわち

 欧米諸国は、戦争をしようとしています。一体、米国は何を守るために戦おうとしているのでしょうか?

9. 難民収容所と化した都市

 先に言いました旱魃によって、首都カーブル(カブール)やジャララバード、カンダハル等の主要都市は、町全体が難民

 収容所になりました。そして、今回の米国の報復攻撃を恐れて、お金がある人達はパキスタン国境に殺到しています。

 都市に残っているのは、どこにも行く当てがない、本当に貧しい元農民や遊牧民ばかりです。パキスタン政府は、国境を

 封鎖したと言っておりますけれども、1500キロもある国境線を見張るのは、不可能であります。検問所を避けて、徒歩で

 3000メートル級の山を越えて、パキスタンを目指しているのが現状です。その山越えで、年寄りや子供がたくさん死んで

 います。

10. 今回の事件は「終わりの始まり」

 今回のテロ事件は、「終わりの始まり」だと私は思っています。経済的繁栄と安全が両立する社会が、成り立たなくなった

 のです。今、日本は少し貧しくなっても、安全に平和で暮らせる社会か、豊かだけれども、危険と隣り合わせの社会のどちら

 かを選択しなければならなくなったと私は思います。

11. 小泉首相を対米協力について

 小泉首相の支持率は、80%だと聞いています。その彼が、アメリカの報復行動にできるだけ協力すると、ブッシュ大統領に

 約束しました。この事は重く受け止めなければなりません。大多数の日本人が支持した政治家の選択です。これは日本人の

 選択なのです。

12. 私だってテロに走りますよ

 アフガンの人々は、仕事はない、家もない、お金もない、食べ物もない、飲み水もない、何もかもないない尽くしの状況に

 追い込まれています。助けを求めても、豊かな先進国は、手を差し伸べようとはしませんでした。声を聞こうとさえしなかった

 のです。徹底的に無視されました。そんな絶望的な状況に追い込まれたら、私だってテロに走りますよ。

13. 日本は平和憲法を全面に押し出すべき

 日本は、憲法9条を全面に押し出すべきです。「我が国は、憲法によって、戦争に今回の参加する事はできません」とはっきり

 言えばいいのです。それで、日米関係が悪化して、経済的に不利益を被って、少し貧しくなってもいいと私は思います。

 アフガンに比べれば、どうって事はないですよ。

14. むしろ、米国や日本の方が報道管制を敷いている

 日本に帰って驚きました。マスコミの報道が、あまりにも一方的だからです。タリバーン=悪者、北部同盟=良い子、悪の権化

 ビン・ラディンをやっつける正義の味方アメリカという図式で、報道しているからです(笑)。冷静さを失っているようです。

 タリバーンというのは、「神学生」という意味です。農村の普通のおっちゃんや兄ちゃんがメンバーです(笑)。ペシャワール

 会が旱魃対策のため、井戸掘りをしていた時です。一緒に井戸を掘っていた村人が、「タリバーンに気をつけろ。武器を持って

 いるからな」と注意してくれました。その人自身も、タリバーンのメンバーです(会場大爆笑)。ただ、アフガンの多数民族

 であるパシュトゥー人が中心であるため、少数民族のハザラ人や、タジク人と対立している事は事実です。私もハザラ人と

 間違えられて、頭に銃を突きつけられた事があります。

15. 復讐法について

 アフガン人にとって法とは、イスラム法と復讐法です。野蛮の代名詞とされている復讐法について説明します。アフガンは、

 シルクロードの十字路であるため、古代から現在に至るまで、戦争が繰り返されました。「やられたらやり返せ」をしないと、

 生き残る事ができない土地です。話が脱線しますけれども、アフガンと同じように、戦乱が絶えなかったパレスチナに生まれ

 育ったイエス・キリストが、「汝殺すなかれ」と説いたのは、とてつもない事でした。生き残るための復讐を禁じたというのは、

 実に極限状態の決断なのです。私も似たような事がよくあります。無医村へ診察に行きますと、びっくりするほど、たくさんの

 人々が集まります。行列ができます。待ちきれない人々が怒って、投石をします。発砲する事も珍しくありません。アフガン

 では、内戦が続いているので、多くの人が銃を持っています。ロケット砲を打ち込まれた事もありました。幸い外れました

 けれども(笑)。また、援助団体の派閥抗争に巻き込まれて、謀略にはめられかけた事もあります。その度に、アフガン人

 スタッフは怒って「仕返しだ、やり返せ」といきり立ちます。その度に、私は「復讐をしてはならん」と言います。すると、

 彼らは目を丸くして、「仕返しをしてはならんですって?! ドクターは正気か?」と驚きます。私は「復讐をすれば、必ず

 後で仕返しを受ける。今は我慢だ」となだめます。これを17年間やってきました。また脱線しますけれども、アフガンを含む

 イスラム教圏において、イエス・キリストは、ムハンマド(マホメット)に次ぐ預言者として、崇拝されています。

 なお、私も一応クリスチャンです(笑)。

16. 募金の行方

 ユニセフ等の援助団体に寄せられる募金の9割は、組織の維持のために使われます。残りの1割しか、難民に使われません。

 それに対して、ペシャワール会へ寄せられる募金の9割が、実際の援助に使われます。当会は、全くのボランティアで運営

 されるために、それが可能なのです。

17.「教育の貧困」について

 アフガンの農村においては、イスラム教の指導者(村の長老がなる)が寺子屋を開いて、子供達に字の読み書きを教え、

 クルアーン(コーラン)を暗誦させます。クルアーンには、人が人としてなすべき道徳や、日常生活の決まりが書かれて

 あります。そして、幼い頃から、大人と一緒に働いて、仕事を覚えます。それが、この国の農村における教育です。

 よく国連のユニセフ辺りが、このような状況を見て、「何たる教育の貧困」を嘆き、学校を建設し、教育を施そうと

 します。しかし、私はそれが良いとは思いません。もし、全ての農村に学校を建設し、子供達に先進国並みの教育を

 施したら、学校を卒業した途端に村を捨て、都会へ流れるでしょう。ほとんどの村が、過疎で空っぽになる事が予想

 されます。教育を通じて、豊かな都会の生活を知るからです。それは、日本がすでに経験した事です。

18. なぜタリバーンが政権を取ったのか?

 タリバーンの兵の数は、私が見たところ、せいぜい2万人ぐらいです。こんなに少ない兵力で、なぜ国土の9割を支配

 しているのかと言いますと、それは、平和を求める民衆の止むに止まれぬ思いからでした。1992年4月、ナジブラ社会

 主義政権が倒れ、ラバニを長とする暫定政権ができました。これが、すぐに内紛を起こしたのです。また戦いが起こり

 ました。治安は極度に悪化し、強盗や殺人が横行しました。人々はうんざりしていました。「もう戦争は嫌だ。平和が

 欲しい!」。それが、民衆の心からの願いでした。そこへ、アフガン南部のカンダハルを拠点とするタリバーン勢力が

 勃興しました。党派争いに疲れ果てていた民衆は、タリバーンが平和を回復してくれると期待しました。その期待を

 受けて、タリバーンはあっという間に、支配地域を広げました。確かに、平和が確立されました。イスラーム法に則り、

 犯罪者を厳しく取り締まった結果、治安は見違えるほど良くなりました。平和を求める民衆の、積極的とはいえない支持で、

 タリバーンが政権を取ったのです。

19. 自力で帰国したアフガン難民

 1989年、旧ソビエト軍が、アフガンから撤退を開始しました。これによって、パキスタンに逃れていたアフガン難民350

 万人が、すぐに帰国するとの観測が流れ、国連は数百億円の予算(その多くを日本が拠出)を使って、難民帰還計画を立て

 ました。これに、欧米の200を越えるNGOが群がりました。しかし、誰一人帰国する者はいませんでした。実は、アフガン

 の戦闘が、さらに激しくなったからです。生き残りを賭けるカーブルの社会主義政権と、戦いに勝って、新政府の主導権

 を握りたいゲリラ各派が、ぶつかり合いました。そして、数千万個にのぼる未処理の地雷や、不発弾もあります。そのような

 実情を無視して、国連や欧米のNGOは、机上の難民帰還計画に熱中し、難民たちを翻弄しました。結局、何一つ実現しません

 でした。数百億円は、どこに消えたのでしょうか? そして、1990年に湾岸戦争が勃発すると、危険だという理由で、彼ら

 の多くは、難民を見捨てて撤退しました。その難民達は、1992年4月に、ナジブラ社会主義政権が崩壊し、戦闘が下火になると、

 自主的に帰国を始めました。今でもはっきり覚えています。彼らは胸を張り、希望に顔を輝かせて、家財道具をトラックや

 ラクダ、あるいはロバの背に乗せて、続々と国境を越えて帰還しました。信じられないような光景でした。夢のようでした。

 誰にも指図されず、誰の手も借りずに、自分達の力で、故郷へ帰って行ったのです。一生、あの光景を忘れないでしょう。

★中村哲氏の著作

 「ペシャワールにて」「ダラエ・ヌールへの道」「医は国境を越えて」(いずれも石風社刊)

 「アフガニスタンの診療所から」(筑摩書房)
 関係書

 丸山直樹著「ドクター・サーブ 中村哲の15年」(石風社)

 中村哲さんが働くNGO「ペシャワール会」は、パキスタン北西部、及びアフガニスタンで医療活動をしている。

 http://www1.meshnet.or.jp/~pesyawar/

P.S 最後まで、辛抱強く読んでくれたあなた、そしていつも素晴らしい情報を送ってくれる春月さんに、心から感謝しています!
   どうもありがとうございました。世界中の人々が、一日も早く、平和な日常を送れますように・・・

ナマ拳、その他のスケジュールはこちら

たった一言でもいいので、コメント下さいね。

XHTML: 次のタグを使用できます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">

*

twitterページ
facebookページ
Amebaブログ