続・愛しの大石順教

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巡業中の19歳のある日、大石よねは、ハッとする光景
を目にする。その光景の中にいた、あるものとは?!

それは鳥籠の中で、カナリヤの親鳥が雛に口で餌を
運んでいる姿だった。鳥は手がなくても、一所懸命、
生きているではないか!

「口に筆 とりて書けよと 教えたる  鳥こそ我の 師にてありける」

一大決心をしたよねは、筆を口にくわえて、独学で
練習を重ね、書画に優れた才能を発揮するまでに
なる。

また、学問を学び、明治45年(1912年)には、日本
画家の山口草平と結婚。一男一女の母となるが、
関東大震災に遭遇。

その後、夫とは離婚に至るが、昭和に入ると「堀江
事件」の犠牲者等の冥福を祈るために、仏道生活に
入り、そして自分と同じ、身体障害者婦女子の収容
と教育を始めるのだった。

昭和8年(1933年)、高野山にて金山穆韶大僧正に
ついて出家・得度し、名を「順教(じゅんきょう)」
と改める。昭和11年(1936年)、京都山科勧修寺
境内に身障者福祉相談所「自在会」を設立し、福祉
活動に献身する一方、口で筆を取り、絵画や書に
励んだ。

昭和26年(1951年)には、「佛光院(自在会改め)」
を建立。昭和28年(1953年)、高野山奥之院へ腕塚
を建立し、落とされた両腕を納骨する。

昭和30年(1955年)、口筆般若心経で、日展書道
部入選。昭和37年(1962年)、日本人として初めて、
世界身体障害者芸術協会の会員に選出。昭和41年
(1966年)、ドイツ・ミュンヘン美術館で個展を開催し、
多大な感銘を与えた。

その他、全国を活動して、身体障害者の心の母、
慈母観音と慕われる。昭和43年(1968年)4月、
佛光院にて、81歳で亡くなった後、遺体を京都
大学医学部で解剖し、学会に寄与した。

大石順教尼のお写真
http://www.yy007.com/ohishi/

彼女の波乱の生涯は、著書「無手の法悦(むての
しあわせ:春秋社刊)」を是非、お読み頂きたい。

その生きる姿は、まさに慈母観音の名にふさわしく、
ただただ頭が下がるばかりだ。マザー・テレサ同様、
大石順教尼を心から尊敬し、愛してやまない。

せめて、その生き様から学んだ事を、少しずつでも
自分の人生に取り入れたいと思う。それにしても御二
人の聖女に、ひと目だけでもお会いしたかったなぁ。
20081216

ナマ拳、その他のスケジュールはこちら

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