2006 年 2 月 のアーカイブ

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坐禅⑤

2006 年 2 月 8 日

警策が終わると、一人一人に経本が配られるのだが、その経本にも正しい
持ち方がある。上腕を胸につけ、経本の外側を人差し指、中指、薬指で支え、
内側は親指と小指で押さえる。確かにこうすると、自然と姿勢は良くなる・・・
しかない(笑)。本を読むように持つと、目線が下がり姿勢は悪くなるのだ。

読むお経は「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」というもので、坐禅の意義、
作法等が述べられている。こんなお経もあるんだね。特有のリズムがあり、
「んー」で終わると、体の内部が振動するのがわかる。これはなかなか気
持ちイイんだよね。これで全て終了。お疲れ様でしたぁぁぁぁぁ~。

衝立や経本を片付け、全員箒片手に掃き掃除。何から何まで自分達で行う
んだよね。私が祖父や祖母の法事等でお寺に行く時は、全て準備が整い、
来訪者はお客様扱い。そんな風習にすっかり慣れきっていた私。考えて
みれば、自分達が使った物は自分達で片付けるのは当たり前なんだよね。

前に読んだ禅の本で、弟子が「悟った後はどうするのでしょう?」と聞くと、
師は「粥を食べれば、粥の椀を洗う」と答えたという話が載っていた。つまり、
当たり前の事を当たり前にする。要はこれだけの事なのだが、言うは易し、
行うは難しだ。

「禅」とは梵語で「ゼンナ」という言葉に、音を表す「禅」という文字を当てた。
物事の真実の姿、あり方を見極めて、これに正しく対応していく心の働き
を整える事をいうそうな。私が元々、仏教に興味を持ったのは「禅」だった。

禅ってよく聞くけど、いったい何だろ?と思い、会社帰りに六本木の書店で、
ひろさちやの「禅入門」を買ったのを覚えている。あれから何年たったの
だろう。ようやく坐禅を体験する事ができた。全てに感謝したい。合掌。
20060208

坐禅④

2006 年 2 月 7 日

前半の初心者研修(?)が終わると、後半は本堂に行き、ベテランの人達と
混ざって坐禅を組む。といってもベテランは数人なので、全員併せても10人
ほど。本堂にストーブはあるが、やはり寒い。その上、裸足なので、もう
カラダがこわばるこわばる。だが、隣のおじーちゃんは何のその。裸足で
見事な結跏趺坐(けっかふざ)であった!

しばらくするとお待ちかねの長作・・・じゃなくって警策(きょうさく)タイム。
坐禅名物、あのパシッとくるアレですよ、アレ! 警策棒(←正式な名称
を知らない)は掃除機の附属品ノズルを髣髴させ(笑)、先が平たくなっ
ている。パシッとスゴい音がするんだよね。

坐禅中に眠くなったり、姿勢が悪かったり、心がまとまらなかったりした
時は、警策で肩を打ってもらう。警策は「聖僧様(=文殊菩薩)」から頂く
ものと思って下さいとの事。警策は自分から進んで打ってもらう方法と、
直堂(じきどう:堂内を監督し、警策を行ずる役)が励ましたり、また引き
しめるために打ってくれる方法と2通りある。

後ろから小声で「まず合掌して下さい。右肩に軽く警策を当てますので、
首を左側に傾けて受けて下さい」と言われたので、ドキドキして待って
いた。このお寺の場合は、順番に回って来るので、ココロの準備ができる(笑)。

未空母は「警策は痛くないと聞いてたけど、あれだけ大きな音がするから、
どんな感じなのかと思っていたら、大した事はなかったわよ」と言っていた。
うーむ、でも痛くないっていうのはウソだと思う。右だけだとバランスが
悪いから、左もついでにお願いしたいんだけど、左肩はやらないんだよね。

ってオイオイ、マッサージじゃないんだからさ(笑)
20060207

坐禅③

2006 年 2 月 6 日

叉手(しゃしゅ)というのは、歩く時の手の作法で、左手の親指を中にして拳を作り
(←ちなみに太極拳で拳を作る型は、必ず親指を外に出すんだよね)、これを胸に
軽く当てて、右手の拳でこれを覆うんだよ。名づけて「胃が痛い」ポーズ(笑)。堂内
を歩く時は、必ず叉手にする。手をブラブラさせて歩くのは不届き者なのだ(笑)。

坐禅は本来、坐禅堂という特別な場所で行うのだが、坐禅堂のない寺院では、本堂
を坐禅堂の代わりにする。坐禅をする場所には、中心に「僧形文殊菩薩(そうぎょう
もんじゅぼさつ)」をおまつりする。文殊菩薩はお釈迦様の弟子の中で、「智慧第一」
といわれたほど優れた方だったので、その智慧にあやかるようにおまつりするんだ
そうな。この中心におまつりする文殊菩薩を、坐禅の時は「聖僧(しょうそう)様」と
お呼びする。

この禅寺には坐禅堂がないので、全て本堂で行うんだけど、入る時は左足から、出る
時は右足からなんだよね。アタマで考えながらやると、思わずコケそうになるっ(笑)。

休憩時間の合図(?)が2回の鐘。これを「経行鐘(きんひんしょう)」っていうんだけど、
「キンヒン?」って一体、何? ずぇ~ったい読めないよね(笑)。

「経行(きんひん)」とは、坐禅が長時間(←線香1本の燃えつきる時間、約40分間
を「一炷(いっちゅう)」という)にわたって行われる場合、時間を見計らって堂内を
ゆるく静かに歩行する事。「経行」そのものの意味は、機織の縦糸の如く、まっすぐ
に往き且つ帰る事なんだそうな。

経行中の手は必ず叉手で、方向は時計回り。前後の人との間隔は詰まりすぎず、
空けすぎず、等間隔である事が望ましく、列は同方向に直線であるように心がけ
なければならない。歩行は一息半歩で、一呼吸に半歩だけ前進する。

つまり、息を吐いて吸う間に、足の甲の長さの半分だけ歩を進め、次の一呼吸
で反対の足を同じく半歩だけ進める。そして、最初の歩は必ず右足から出す。
歩を運ぶ時は、上体が後ろにそったり、前方に倒れたり、あるいは左右に揺れ
てはいけない。

後ろの未空母はせっかちな性格なので、私にどんどん接近して来る。オイオイ、
歩幅を考えてくれよぉ。未空母曰く「私だって、後ろの坊やにせかされてたん
だから。そもそもね、アナタがトロいのがイケナイのよ」「トホホ・・・」
20060206

坐禅②

2006 年 2 月 5 日

通常、坐禅の時間は35~40分。そこで20分ほどの休憩があり、また35~40分
坐禅をするのだが、後半部分ではお経も読む。初心者は15分くらいだが、
想像以上に長く感じる。目はつぶっちゃダメなんだって! 知らんかったぁぁぁ。

自然のままに開いて、視線は1メートル前方、約45度の角度に落としたまま、
よそ見をしてはいけない。呼吸は基本的には腹式呼吸なんだね。体を落ち
着かせるために、「左右揺振(さゆうようしん)」といって、上半身を振り子の
ように左右に揺り動かし、大から小に揺すり、坐相を正しく落ち着かせる。

そして、坐禅中は様々な思いにとらわれない事。目に映るもの、耳に聞こ
える音、鼻に匂う香り、心に浮かぶ思念にも、なるがままに、それらの一
切に引き込まれないように、気にかけない事。

参禅者の身相が整う頃、堂頭(どうちょう)が入堂して堂内を一巡し、
正しい坐にあるかを点検する。これを「検単(けんたん)」という。堂頭
が自分の後ろに巡って来た時は合掌し、通り過ぎた後に法界定印
(ほっかいじょういん)に戻す。この後、鐘が3回鳴り、これを「止静鐘
(しじょうしょう)」という。これが鳴ったら堂内に出入りをしてはいけない。

想像以上に細かい規則が多くてビックリ。まさに礼の世界だね。20分ほど
の休憩といっても、あぁぁぁ~やれやれ~と言って足を投げ出せるワケじ
ゃないんだよ(笑)。鐘が1回鳴ると、終わりの合図で、合掌し低頭した後、
左右揺振する。今度は両手の手の平を上にして膝の上に置き、始めは小
さくだんだん大きく揺り動かす。体をほぐした後、右回りをして向きを変える。

そして足を解き、ゆっくりと静かに立ち上がる。コレが何気に時間がかか
るんだよ(笑)。そして、坐蒲(ざふ)を元の形に直す。直し終わったら、
自分の坐っていた場所に向かって合掌し低頭(隣位問訊:りんいもんじん)。

次に右回りして、向かいの人に合掌し低頭(対坐問訊:たいざもんじん)。
その後、叉手(しゃしゅ)で退堂する。この叉手っていうのが、おもしろい
形なんだよね。どうして、こうするんだろう?
20060205

坐禅①

2006 年 2 月 4 日

隣町に曹洞宗の禅寺があり、坐禅会と写経会をやっている。元々坐禅
に興味があったので、まずは行ってみる事にした。写経会は30人ぐらい
来るらしいが、坐禅となるとグーンと少なくなるようで、私と未空母、
10歳の男の子とその父親、40代とおぼしき女性の計5人だった。
全員初心者という事で、聖僧から坐禅の基本的動作を教えてもらう。

まずは御堂に坐蒲(ざふ)を取りに行くのだが、この時バラバラに出て
はいけない。入口に一番近い人から順に列を作って行くのだ。坐蒲とは
坐禅用の黒いクッションの事で、大・中・小の3タイプがあり、私は中を
渡された。

座蒲を持つ時は親指、人差し指、中指の3本だけを使い、お寺の名前
が書いてある白い部分を上にして、坐る時は背中側にくるようにする。

自分の位置に立っても、すぐに坐れるワケではない。まず両隣の人へ
の挨拶として、前の壁に向かって合掌し低頭する。これを「隣位問訊
(りんいもんじん)」という。次に、向かいにいる人への挨拶として、
右回りをして合掌し低頭する。これを「対坐問訊(たいざもんじん)」と
いい、これが終わってようやく坐れるのだ。

いよいよ私の苦手な「結跏趺坐(けっかふざ)」に挑戦! 結跏趺坐とは、
右の足を左の太腿の上に深く乗せ、次に左の足を右の太腿の上に乗せ
るポーズだ。「蓮華坐(れんげざ)」ともいうよね。必死にやっているうち
に足が攣ってきたので、あえなく断念。くーーーっ、痛ったぁぁぁぁぁ~。

案の定、左の足を右の太腿の上に深く乗せるだけの「半跏趺坐(はんか
ふざ)」、想定内の結果となる(笑)。

だが、結跏趺坐でも半跏趺坐でも大切なのは、両膝とお尻の3点で上
体を支える事。聖僧は「カメラの三脚を思い出して下さい」と言っていた。
それと坐蒲を自分の体に合わせて調節し、両膝を確実に地につける事。

ところが坐蒲の中タイプの生地が綿で、洋服との相性が悪いと、坐って
いる間にズリズリ落ちてくる。大タイプの坐蒲は、別珍のような生地で
できているので滑りづらいようだ。未空母も中タイプだったので、それ
が気になって気になって、雑念どころではなかったと言うが、あの~
もしもし~、それこそ雑念以外の何ものでもないと思うんですけどぉ(笑)。

足を組んだ後の姿勢は、両足の周りの衣服を整え、背骨をまっすぐ
に伸ばし、お尻を後方に突き出すようにして、腰にきまりをつける。

両肩の力を抜き、腰の骨をまっすぐに伸ばし、首筋には力を入れず、
アゴを引き、アタマで天を突き上げるようにすると、背骨がまっすぐ
になる。

手は、右の手の平を上向きにして組んだ足の上に置き、両手の親指
の先をかすかに接触させる。力を入れて押してはいけないが、決して
離さないようにする。これを「法界定印(ほっかいじょういん)」という。

基本は裸足と言われ、靴下を脱いだのだが、これが想像以上に冷える
冷える。今は練習中なので、まだ暖かい絨毯の部屋にいるが、本当は
御堂の板の間で坐禅を組むので、超ヤワヤワな私は恐れおののいて
いた。まして、今日のニッポンは、“冷凍列島”と呼ばれるほど、超しば
れているんだよぉぉぉぉぉ~(号泣)。

未空の運命や、いかに・・・
20060204

福物

2006 年 2 月 3 日

今日は節分。旧暦では元旦となり、いよいよ新年が始まる。思えば私の1/1は、
思いっきり風邪をひいて熱を出し、超久々に最悪のコンディションで迎えた(号泣)。

今回は健康なカラダで迎えられる、うれしいうれしいお正月だ。心身共に健
康というのは決して当たり前の事ではなく、感謝しなければならないと思う。

気持ちも新たに、6Fのベランダから「鬼は外、福は内」と豆まきをした後、
「えーっと、いくつだっけ?」とトボけながら大豆を味わった。注意深く、
2度数えつつ(笑)。

2006年、♪コイツは春から縁起がイイや~と思った事にはワケがある。最近、
とても福に縁があり、昨日は友人から同時に福物が届いた。仕事から帰って
来ると、ドアのノブに紙袋がかけてある。デザイナーの友人が寒い中、わざ
わざ届けに来てくれたのだ。病み上がりだというのに・・・うるうるうるうる・・・

彼女が「ささやかなBirthdayプレゼントを送るね」と言っていたのは、湯島
天神の縁起物だったのか。御守もうれしいけど、福物は見てるだけでウキ
ウキしてくるよね。きっと昔の人も同じように感じていたんだと思う。

私達ニッポン人には、“福物DNA”が組み込まれており、だから酉の市を始め、
大山阿夫利(あふり)神社の奥の院で引いたおみくじには「カエル」、江ノ島
神社では「招き猫」が入っていた。2匹共、私の財布の中で仲良く同居して
いる(笑)。部屋の窓にはドリームキャッチャーや絵馬、PCの棚には空庵
神社があり、打ち出の小槌やミニお賽銭箱etc. バラエティに富んでるなぁ。

全て頂き物であり、その1つ1つから元気をもらっているのだ。私の福物好きは
やめられない、止まらない某スナック菓子のようなモノ(笑)。2006年は最高
にステキな“一年”になるよ。“一念”で変わるからね。

最後に、My笠地蔵の友人達にココロから感謝したい。いつもどうもありがとう!
20060203

謙虚

2006 年 2 月 2 日

謙虚な人間は、自分はまだまだであると常に自分に言い聞かせている。
自分はまだまだ高みに至らないと思うがゆえに、
努力をし成長を続けることができる。

ここで思い違いをしてはいけないのが、
「自分がまだまだである」と思うことが謙虚であるということではない。
謙虚であるがゆえに自分はまだまだでに謙虚でいることができる。

ここでもそうだが、
「自分は傲慢である」と思うことが謙虚であるということではない。
謙虚であるがゆえに自分は傲慢であると自覚できるのである。

想いがあって行動が現れる。
行動があって想いが現れるのではない。

/メルマガ「日々想う」より
20060202
鉄格子に守られた黒いドアの奥に、仏様の歯が納めてある。一体、どこの歯なのか? それは本当に、仏陀の歯と証明されたのか?etc. 疑問は尽きないが、キリストの聖骸布のように、科学的な検査はしていないという。だが、スリランカ一の聖地は、この仏歯寺である事に間違いはない。今は、ただ祈ろう・・・

太極拳教室のクラスメート「耳鳴り」なう

2006 年 2 月 1 日

「突発性難聴」の症状とは?

ある日突然、片方(極めてまれに両方)の耳がほとんど、あるいは全く聞こえなくなる。
音が聞こえないというよりも、耳が詰まった感じ(耳閉感)、あるいは音が響く感じ
(聴覚過敏)、音が歪む感じとして自覚される事もある。耳鳴りやめまい、吐き気を
伴う事もあるとか。

「突発性難聴」の診断方法とは?

聴力検査で感音難聴を認める。難聴は一般に片側だけだが、高度の事が多く、全く
音が聞こえない場合もしばしばある。小さな音量の変化を大きく感じ取ってしまう現象
(補充現象)が陽性であれば、内耳障害が生じている証拠だ。

急性高度感音難聴をきたす他の疾患(特に聴神経腫瘍)との鑑別のため、頭部(内耳道)
MRI検査を受けた方が良いだろう。メニエール病の初回発作との鑑別診断は困難な事が
あるといわれてる。迷路瘻孔症状検査が陽性であれば、外リンパ瘻が疑われるが、陽性
でなくても発症時に「いきみ」や「鼻かみ」など、中耳圧や脳圧に変化があったと考えられ
る場合には、外リンパ瘻を疑うべきだろう。血液検査でヘルペスウイルスなどの感染が
明らかになる場合もある。帯状疱疹の所見があれば、ハント症候群と考えられる。
炎症所見が明らかであれば、内耳炎と診断するのが妥当だろう。

いずれにしても、素人判断が危険な事だけは確かだ。原因は不明だが、私が彼女を
見ている限り、最大の原因はストレスだと思う。未空母の友人が「季節外れのセミが
鳴いているのよ」「キーンっていつも音がしてるの」と言っていたが、今度は太極拳の
私と同じくらい古い生徒さんで、ホテルの美容室で働いている方が、「私も長年、
耳鳴りに悩まされてるのよ」と話しかけて来た。

こんなにも耳鳴りに苦しむ人達が多いのか。女性特有の病気なんだろうか。それにし
ても、何とかならないものだろうか。そこで思いついたのが脉診の達人A先生だった。

「もし良かったら行ってみて下さい」とパンフレットを渡したところ、彼女は週1で
通い始めた。よほど辛かったんだろう。だが数ヶ月経った頃には、耳鳴りはするも
のの、今までの半分以下になったと喜んでいた。良かったぁ。本当に良かった(号泣)。

この話を友人にしたら、「本当に? 勇気が湧いてきたよ。元気も出てきた」とうれ
しそうだった。そうなのだ。まずは、希望の光が必要なのだ。自分と同じ病状に苦し
む人が、癒されていく体験というのは、かなりの説得力がある。ポジティブな方に
意識を向けるには、最も効果的なやり方だと思った。

結局、彼女は5日間、病院に入院しながら点滴治療を受け、手術はしなくて済んだ。
ホッ。今では通院しながらも、仕事に復帰している。西洋医学と東洋医学のイイ
とこ取りをして、じっくり治療すれば大丈夫だ。対立ではなく、融合すればいいの
だから。改めて、病気の情報は大事だと痛感させられた。

「突発性難聴」を教えてくれた未空母に、ココロから感謝している。
20060201

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