2007 年 2 月 13 日 のアーカイブ

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続・永井隆博士

2007 年 2 月 13 日

引き続き、永井隆博士のサイトを引用させて頂く。

太平洋戦争も激しくなり、永井一家も親子離れ離れの暮らしが続く。そして
敗戦の時が近づく1945年(昭和20年)6月、不調を訴えた博士に余命3年
の診断が下された。

浴び続けたラジウムの放射線に、博士の五体は白血病に犯されていた。
しかし、悲劇はこれに止まらず、更にもっと恐ろしい悲劇が襲った。

蝉時雨の暑い真夏の1945年8月9日11時2分、世界が真っ白い光に包まれ、
凄まじい爆風と共に超高熱が走った。米軍機から長崎に原爆が落とされた
のである。

博士はこの時、爆心地からわずか700mしか離れていない長崎医科大学
の研究室にいた。相次ぐ空襲で負傷した患者であふれた教室で、自らの
白血病と闘いながら、診察中の被爆だった。

“そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのを
ラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかり
でなく、過去も吹き飛ばされ、未来も壊されてしまった。

見ている目の前で、我が愛する学生もろとも一団の炎となった。我が
亡き後の子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となって我が家
の焼け跡から拾わねばならなかった。台所で死んでいた。

私自身は慢性の原子病の上に、更に原子爆弾による急性原子病が
加わり、右半身の負傷と共に予定より早く廃人となり果ててしまった”

/永井 隆著「この子を残して」より

被爆した永井博士は、右半身に多数のガラス片切創を負い、特に右
耳前部の傷は深く、右側頭動脈が切断されるほど重傷だったという。

滝の如く噴き出す鮮血を三角巾で縛っての負傷者の救護活動だったが、
血が止まらず失血のため倒れた。9/10頃、原子病の症状が現われ、
傷が壊死し始め、高熱が続き昏睡状態に陥った。

“それから今日まで病勢は順々に進んできた。今では原稿用紙を取って
もらう事さえ、いちいち人に頼まねばならぬほどだ。それで患者を診る
どころか、顕微鏡を覗く力もない。しかし幸いな事には、私の研究した
い原子病そのものが私の肉体にある”

/永井 隆著「この子を残して」より

新たな課題、まだ誰も研究した事のない病気、原爆症の研究が待って
いた。永井博士の原爆症との闘いは、自らの肉体を実験台に供する
事で継続されていく・・・
20070213
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