2009 年 1 月 6 日 のアーカイブ

ホーム >  未空ブログ > 2009 > 1月 > 06

“ナマ拳”イブ

2009 年 1 月 6 日

♪雨は夜更け過ぎに 雪へと変わるだろう・・・
って違うっちゅーに。“ナマ拳”イブだって(笑)。

それにしても早っ! ナマ犬“Thai Chi(タイチ:
英語で太極拳の事を「タイ・チー」っていうんだよね)”
の看板もでき上がって、準備はほぼ整ったかな。

とゆーワケで、ナマ拳イブ特別講座「太極拳の歴史」
なんぞをご紹介。かなりうまくまとまっていると、師範
の間から絶賛されているようなので、早速陰陽・・・
じゃなかった(笑)、引用させて頂く。

“現在、日本における太極拳は一般的に、簡化24式
の型が普及しているが、古い時代ではただ拳法と
呼ばれていた。

太極拳の祖は張三豊(チァン・サン・フォン)で、
元末期~明初期の武人ともいわれる。張祖師は、
達磨大師が河南省少林寺で創出した少林寺拳を
体得して、その技の速度を緩やかに静を持って、
動を制する事を旨とし、彼が武当山に住んでい
た事から、別名武当派の太極拳ともいわれた。
伝説的人物で、つまびらかでない一面もある。

比較的資料の上で信頼がおけるのは、1630年頃、
明末の武将で第9世陳王延(チェン・ワン・ティン、
1580年頃生まれ)で、明代初期に開拓民として
中国河南省温県一帯の農村・陳家溝へ移住した
一族である。

彼は明朝に仕えて、李自成の反乱軍と戦い、
武将として功績を挙げ、明朝が滅びた後、
清朝に仕官する事もなく農民暮らしをし、
農繁期には農事、閑な時には拳法の練習
に励み、晴耕錬拳といったところだった。

陳氏の武術は元々、少林寺拳法であったらしく、
拳法を「砲捶(ほうすい:パオ・チュイ)」と呼び、
太極拳を称するのはずっと後の事。

清朝の乾隆時代(18世紀初期)に民間の
武術家・王宋岳(ワン・ゾォン・ユエ)が
先人の経験をまとめ、太極拳陰陽学説を
基に拳理を解釈した「太極拳経」により、
太極拳という名称が確定し、以後呼ばれ
るようになった。

清朝末期、太極拳の名手・楊露禅(ヤン・
ロウ・チャン)は太極拳の技を研鑚し、
また他の武道にも精通して、北京で清朝
の皇族に武術を教えるに至り、当時の
身分の高い人達は運動不足の上、美食
を重ねていたため、糖尿病や高脂血症
になり、現在でいう生活習慣病になり、
腰痛・膝痛に悩まされ、その上皇族は
非常に身体が弱く、武道の修行に堪え
切れないため、楊露禅は太極拳を更に
工夫し、動作を柔軟なものにして、
スピードも緩慢なものに改め、特に
精神面と健康保持に力を注ぎ、その
結果、医療効果が上がった。

清・明朝時代以前は、伝統拳と呼ばれ、
流派も陳式を始め、楊式、武式、呉式、
孫式と型も多く、覚えにくい難点があり、
中国政府は国民に広く普及させるため、
毛沢東の体育理論を基本として、国家
体育運動委員会委員・李天驥(リ・ティ
エン・ヂィ)老師に依頼し、伝統太極拳
の楊式を基本に、簡便な24の型にまとめ
上げた。

これが簡化24式太極拳と呼ばれ、中国
国家が作り上げ制定した事から、制定
拳とも試合競技に使われるため、競技
太極拳ともいわれる。

簡化24式太極拳が日本に入ってきたのは、
1962年2月に、当時の厚生大臣・古井喜実
代議士が第2回目の中国訪問の時に、北京
の公園で太極拳を見聞きし、帰国の際、
中国より図解入りテキストが贈られた。

現在、日本健康太極拳協会と日本武術
太極拳連盟やその他の団体があり、動作
の基本は簡化24式が基になっている。

武術太極拳は競技目的のため、6~7分で
型は正確性を要し、他方、健康太極拳は
時間が12~13分で、型よりも気の流れや
呼吸を重視し、ゆっくりとした動きで
健康を目的としている。

中国の故事にあるように「未病を治す」を
目標に、健康太極拳が多くの人に広まる
事を願っている”

ちなみに、ナマ拳は「ムリをしない、がんばらない、
人と比べない(私が生まれて初めて習ったY先生
のお言葉)」健康太極拳だよ~ん。
20090106

twitterページ
facebookページ
Amebaブログ