未空家に代々伝わる、食べ物を捨てる時のプチ儀式・中篇

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11/26付「未空家に代々伝わる、食べ物を捨てる時のプチ儀式・前篇」
から読んでね→ http://www.coo-an.com/blog/archives/14279

よく食事に行く前など、「嫌いな物とかありますか?」と聞かれるが、
私は決まって「残すのが嫌いです」と答えている。そんな私なので、
食べ物を捨てる時の罪悪感はハンパない。

私はお酒が全く飲めないので、滅多に行かないが、居酒屋などで
ツマミが残っていると、自分のテーブルはもちろん、隣のテーブル
も気になってくる。

よく「未空は最後まで箸を置かない人だよね」と笑われるが、実は
そういう背景があるのだ。だって、目の前の食べ物って、人間に
命投げ出してるんだよね。

米や野菜、肉や魚など、私に食べられるようと思って生まれたん
じゃないよね。お米なんて、自分の子孫を増やそうと思って半年
かかって、やっとお米になったんだから。一粒が千粒にもね。

それをね、取って来て食べちゃうんだから、お米からすれば、人間
なんて鬼か悪魔って感じでしょ。その上、ゴミ箱行きにされたら、
まさに無駄死にになっちゃうじゃん(泣)。

そう思ったら、目の前の命にただひたすら申し訳なくて、思わず
合掌したくなるんだよね(笑)。未空家ではとにかく、食べ物を
粗末にすると、ムチャクチャ怒られたし、「おかずを残す時にも、
残し方があるのよ」と言われ、箸の持ち方にも厳しかった。

「今からきちんとしておかないと、親が笑われるのよ」と未空母
はよく言ってたっけ。今ではすっかり言われなくなったが、“お里
が知れる”というのは、そういう意味なのだろう。つづくのさ。

芝・増上寺には、築地が近いせいもあって、魚の慰霊碑がある。私にとって魚=刺身であり、最後の晩餐は昔から、江戸前寿司と決めているので、魚にとっては恐ろしい天敵だ。山口県長門市の漁村・仙崎で生まれ育った詩人・金子みすゞの「大漁」という詩を思い出した。“朝焼け小焼けだ 大漁だ 大羽鰯(オオバイワシ)の大漁だ浜は祭りのようだけど 海の中では 何万の 鰯の弔(とむら)い するだろう” 生きとし生ける命は、みな平等という彼女の感性は、まさに仏教的だ。その他、「みんなをすきに」という詩も素晴らしい。“私は好きになりたいな 何でもかんでもみいんな ねぎもトマトもお魚も 残らず好きになりたいな うちのおかずはみいんな お母様がお作りになったもの 私は好きになりたいな 誰でもかれでもみいんな お医者さんでもカラスでも 残らず好きになりたいな 世界のものはみいんな 神様がお作りになったもの” 全ては神の創造物か。これはキリスト教的だね。いずれにしても、詩人・金子みすゞは天才だ。そんな事を考えながら、魚の慰霊碑前で、感謝をしながら、手を合わせる。魚さん、いつも美味しいお刺身やお寿司をありがとうございます!

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