2001 年 7 月 10 日 のアーカイブ

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ラベンダー

2001 年 7 月 10 日

ラベンダー生産農家のファーム富田の経営者:富田忠雄さんが語る

「ラベンダー物語」のはじまり~はじまり~♪

日本にラベンダーが持ち込まれたのは、昭和12年。ヨーロッパの一大産地

であるプロバンスに一番近い、温暖な気候の岡山県にまず持ち込んでみた。

ところが、うまくいかない。ほとんど日本各地の農業試験場で実験栽培

したがダメ(泣)。それで、どんどん北上して、青森まで行った。それでも

ダメで、ついに北海道に入ってきた。北海道でもいくつかの地で栽培したが

うまくいかない。ところが、富良野では見事に根付いた。雪があるから、

北海道では到底ダメだろうと思われていたのに・・・ なぜか?

ラベンダーは寒いのは嫌いだけど、氷点下にならなければいい。梅雨は絶対

にダメ。北海道には、まず梅雨がない。富良野は、氷点下30度までなるけれど、

地面は降り積もった雪が、ちょうどいい覆いになって、地面は氷点下にならない。

もっと雪が降る所だと、今度は雪の重みで、ラベンダーの木が折れてしまう。

富良野は、ちょうどいい降り方だったらしい。これには多いに考えさせられてしまう。

岡山がプロバンスに似てるというのは、人間本意の感覚で、アバウトに感じた事で

あって、ラベンダーの立場に立ってみたら、全然違うという事だった。梅雨がある。

全然イヤだって。いくら全体的に何となくイケていても、肝心のこれだけは譲れない

というところがクリアできてなければ、ダメなんだ。そんな訳で、富良野はファーム

富田の富田忠雄さんの祖父母の代には、辺り一面見渡す限り、地平線までラベンダー

畑で、駅から降りたら、プーンとラベンダーの香りがしたそうだ。収穫したラベンダーは、

全部化粧品会社が買ってくれた。当時、輸入が自由化されていなかったし、人口香料

もまだ発達していなかったので、香水に、ファンデーションの香り付けに、富良野の

ラベンダーは引っ張りだこだった。ところが、ある年突然に、もうラベンダーは

いらないと言われた。もう買わないから、畑をつぶしてくれと、化粧品会社から言われた。

輸入の自由化だった。富田さんは、富良野のラベンダーも、フランスのラベンダーも、

そう変わらないと思うのだが、日本人は、特に女性は、ヨーロッパ製、中でもフランス

製に弱い。それでもう、フランスから買うからいいと言われた。ほとんどのラベンダー

農家は、ラベンダー畑をつぶして、他の作物に転換していった。ところが、富田さんは

そうするには忍びなかった。ラベンダーは他の作物と違って、春植えて秋に収穫すると

いうようなものではない。何年もかかって、やっと収穫できるものだ。それまで育てて

きてやっと収穫できるようになったのに、潰すなんてできなかった。大体5年目~8年目

ぐらいの木が最盛期で、12年目ぐらいまで収穫できる。何とか新しい買い手はないか

探して、お線香屋さんに買ってもらえる事になった。この時、富田さんと他に1軒だけに

なっていたが、ラベンダー入りのお線香で4、5年食べさせてもらった。

ところが、5年目になって、またお線香屋さんから言われてしまう。倉庫がラベンダーの

線香でいっぱいになってしまった。もう作らないでくれ。ここで、残っていた1軒も断念

して、畑を潰した。それでも、富田さんはどうしてもできずに、家族と話し合って、今年

1年は、家族が楽しむだけのためにラベンダーを置いておこう。そして、来年潰そうと決めた。

そして1年後、富田さんは意を決して、トラクターを畑に入れた。潰すとは、トラクターで

木を粉砕して、土に混ぜ込んでいくのだ。ようやく決心して、エンジンをかけ、4メートル

ほど進んだところだった。不思議な事が起こった。突然「ぎゃーっ」という大きな声が

聞こえたのだ。それから富田さんは、どうしてもトラクターを前に進める事ができなく

なってしまった。ところが、夏になって、自分の畑に知らない人がいて、測量している。

人の畑を勝手に測量するとは、けしからんヤツだと思って話しかけたら、測量士ではなく、

カメラマンだという。三脚を立てて、写真を撮っていたのだった。聞くと、その年、国鉄の

PRポスターに、ラベンダー畑の写真が採用されていたそうで、それで知って撮りに来たのだ

と言う。来年潰す話をしたら、それは困る、何とか続ける方法を考えてくれと言う。なぜなら、

写真は、もう存在しない所を撮ったのでは、商品価値がほとんどないのだそうだ。写真のもの

が、ここに行けば見られるとあって、初めて商品価値が出るという。そうこうするうちに、

今度は映画関係者が、たくさん尋ねて来るようになった。彼らも国鉄のポスターで、日本にも

ラベンダー畑があると知って、見に来たのだが、彼らはカンヌ映画祭のために、カンヌに行って

いた。カンヌはラベンダーの一大産地で、ラベンダーが日本でも見られると知って、見に来たの

だった。映画関係者も、ラベンダー畑がなくなる話を聞いて残念がり、何とかラベンダーを

生かす方法はないか考えようとしてくれた。当時も、ばあちゃんが、匂い袋のような、サシェ

のような物を作っていた。それが何10個か貯まると、カメラマン達がお土産に良いと言って、

できたもの全部持って行く。お金はいいと言うと、そういう訳にはいかないからと言って、

法外なお金を置いていく。それでは、かえって申し訳ないと、その匂い袋に値段をつけたのが、

ラベンダーに値段を付けた最初だった。しかし、匂い袋だけでは、到底足りないので、その中の

1人が、ハーブにとても詳しい女性が、やはり映画関係者の中にいるので、連れて来ようと言って、

連れて来てくれた。農家というのは、作るのはいいのだが、自分の作ったものに、値段を付けて

売るというのは、どうにも苦手だ。だから、全部農協任せなのだが、農協も引き取ってれくないので、

そんな事も言っておられない。その女性に、たくさんの事を教えてもらって、現在のファーム富田

に至る基礎ができた。3、4日泊まって、色々な事を教えてくれたその女性、未だに誰だかわからない。

テレビに出る機会があれば、その話をするし、映画関係者にも、ずい分聞いたが、とうとう今日に

至るまで、名前すらわからずじまい。一緒に話していたばあちゃんは、いつも「ねぇ、あんたあんた」

と呼んでいて、聞いた事がなかったと言うし。こうして、ラベンダーを売る方法を見つけた富田さんだが、

今日に至るまで、一つ自負している事がある。それは、自分はラベンダーを金儲けの道具に使った事は

一度もないという事。ラベンダーを何とか生かす方法はないか、ただそれだけ考えてやってきた。

ラベンダーの製油の成分が、脳に作用してどういう効果があると言われるが、富田さんは、それだけ

ではないと思っている。あの時、聞いた悲鳴は、ラベンダーの精の声だったのではないか?

ラベンダーの成分があって、ラベンダーの精が働きかけて、そして人間に効果があるんだと思っている。

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