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お茶壺道中~2年ぶりの名古屋出張帰り

2012 年 11 月 19 日

徳川幕府が生まれ、政治の中心が京都から江戸へ移ってからも、
徳川家康は宇治のお茶を好み、宇治から江戸へ茶葉を取り寄せ
楽しんでいた。

その後、2代将軍・秀忠や3代将軍・家光を始めとする将軍家に、
宇治のお茶は愛好され続けた。1627年(寛永4年)、家光は
幕府が朝廷に献上するための茶葉と、将軍家で使用するため
の茶葉を、上林家を筆頭とする宇治御茶師達に作らせる。

それ以降、毎年新茶の時期になると、宇治から江戸へお茶が運ばれ
るようになり、1632年(寛永9年)に、家光によって制度化され、将軍
家の権威を示す儀式として毎年、行われるようになった。

当初は、宇治採茶使(うじさいちゃし)を務める徒歩頭(かちがしら)に、
茶道頭、茶道衆らが付き添うものだったが、後に「お茶壺道中(おちゃ
つぼどうちゅう)」と呼ばれる大々的な行列になった。

お茶壷道中が行われていた頃、お茶は大変貴重なものであり、お茶
壷道中で運ばれていた茶壺の中には、一壷で大判1枚の価値に
相当するものもあったと伝えられている。
http://ayataka.jp/i/story/kanbayasi/05_1.html

1632年(寛永9年)に宇治茶を将軍家に献上する事に始まったお茶
壺道中。家光は将軍の権威を示すため、毎年江戸~京都間を往復
する一行の茶壺に、はなはだしく威勢を持たせた。

宿場では百人の人足を出す定めがあり、多い時にはお茶壺奉行を
始め、百人以上の行列をもてなさなければいけないので、負担も
大きく、この茶壺は各宿場から、大いに恐れられていた。

行程の都合で、岡崎伝馬宿ではこの一行は、ご馳走屋敷で休んだ。
ご馳走屋敷には、岡崎藩の家老が出向き、丁重にもてなしたとの
記録が残っている。

名古屋からの帰り、出張の達人Kさんが、「のぞみではなく、ひかり
の方が空いてる。小田原に停まるだけで、大して変わらない」と言う。

私のアタマでは関西出張=のぞみと思い込んでいたが、時間にして
10分ぐらいしか変わらないのなら、名古屋からの帰りは、いつも混ん
でるのぞみより、ひかりの方がイイかもね。また、ここで一つ賢くなっ
たなぁ。出張の達人Kさん、いつもありがとうございますm(_ _)m

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